2014.0420
築地は海軍発祥の地
ペリーの黒船来航以来、海防の必要性に迫られた江戸幕府は、はじめ長崎に海軍を学ぶ教授所を作りますが、江戸から遠い地のため、1857年、幕府に近い築地に軍艦教授所を設けました。長崎で学んだ卒業生が中心となり、その中心人物に勝海舟がいました。
時が過ぎ、明治政府は、1871年、この地に海軍省を作ります。この場所は、江戸幕府の老中松平定信が引退後に棲んだ「浴恩園」があったところで、築山に海軍卿旗が掲揚されていました。その記念碑が「旗山」です。
旗山の記念碑
旗山の記念碑は築地水神社の中にあります。魚河岸水神社は1600年頃から祀られている神社で、関東大震災で焼失した日本橋魚河岸が、築地に移り、同時に遷座された神社です。
築地場内市場 魚河岸水神社
初代海軍卿となった勝海舟は、『軍艦操練所』で学長にあたる教授をつとめます。操練所は二度の火災にあい、建物は焼失し、そして現在の旧浜離宮の地へと移ります。この操練所で、あの坂本龍馬も学んでいました。
軍艦操練所跡の看板
『軍艦操練所』の跡地には、日本初の洋式ホテル「築地ホテル」が建てられますが、火災で焼失し、数年で廃業となりました。
海軍関連の施設として、海軍士官を養成する兵学校の前身の兵学寮がつくられ、医学校も併設されました。広島の江田島に移るまでの20年、築地にありました。
現在の国立がんセンター敷地内に記念碑があります
海軍兵学寮と軍医学校跡の記念碑
また、勝鬨橋のたもとには海軍経理学校の碑があります。旧海軍主計課要員の学校で卒業生は一万人を超えているといわれています。
海軍経理学校の碑
今は魚市場として有名な築地ですが、激動の江戸末期から明治にかけては、国の運命を左右した大きな施設が置かれていました。
そして、この築地の市場も2年後には別の所へ移動することが決まっています。